どうせやるなら楽しく貪欲に

山本昌さんの写真

山本 昌

スポーツコメンテーター

現在の活動内容について

野球評論家として中継解説をメインに、フジテレビで放送されている日曜朝のニュース番組や、関西地区・東海地区でもニュース番組内の企画でリポーターにも挑戦しています。また、テレビやラジオの広告に起用頂いたり、講演の講師として活動もしています。様々なお仕事をさせて頂きますが、やはり「野球を広めたい」「野球に携わっていきたい」という思いが一番強いので、野球教室や講演・トークショーでは、自分の体験してきたことや、想いを伝えるようにしています。特に子ども向けの野球教室では、「ケガをしてほしくない」という思いがありますので、ケガをしないための投げ方や、僕自身の取組み方なども子どもたちに伝えられれば、と思って取り組んでいます。


現在の活動のきっかけについて

僕はのめり込みやすい性格で、何に対してもやり込むことが好きなんです。よく、多趣味と言われるのですが、多趣味というよりは、小さい頃に始めていたことをずっと続けているだけなんです。昆虫採集も野球も、小学生時代から、学校帰りや休日にやっていたのが続いていったんです。
プロ野球引退後に始めたことは、競馬とラジコンを再開した事ですね。ラジコンは中学三年生のころにお年玉で買って始めたのが最初で、プロに入ってからはしばらくやらなかったんですけど、95年に膝を悪くしたのがきっかけで再開したら、面白くてはまってしまったのですが、晩年は封印をしていたので、引退をきWかっけにまた再開したという事ですね。

山本昌さんの活動の様子

プロ野球選手から現在の活動に移行する際に苦労したことについて

高校卒業から50歳までずっと野球をしていたので、こういう言い方は語弊があるのかもしれないのですが、一般社会に出たことがないんですね。特殊な世界にずっといたので、まず、辞めるのが怖かったです。「辞めて自分になにができるんだろう?」「話すのは得意じゃないし、話を聞いていただけるかな?」というのはすごく思いました。
なので、言葉遣いや伝え方は、最初は他の方の解説などを聞いて勉強するなど、疑心暗鬼で進んできましたが、最近は自分の形が確立できたと思います。私はピッチャー出身で、ピッチャーのコアな部分が分かるので、その部分が分かりやすく伝わるように、自分の得意分野を伝えるスタンスで解説しています。

現在の活動での「やりがい」について

モチベーションについては、あまり下がることがないんです。常にプラス思考、いつもなにかをやっていなくてはと思っていますし、その上で「どうせやるなら楽しく」という思いもすごく思っています。
「中途半端が嫌い」というのもあります。例えばラジコンでも、「野球界で50歳までやった人間が、ラジコン界で全然ダメ」というのが嫌なんです。そういう意味で、ラジコンでも日本のトップクラスに迫れるように、というのは常に思っています。
野球でやってきたことはすごく役立っています。成績では上の方でプレーすることができましたので、「どうやったらトップに近づけるのか?」というのは、ラジコンでもぼんやりと分かる気がするんですね。
僕が20年以上師事している、小山先生というトレーニングの先生が鳥取にいらっしゃるのですが、肉体に関して「もっともっと上がある。突き詰めればもっと上がある。トップになるために、常に進化していく」と、とても貪欲なんです。小山先生の貪欲さは、野球や、僕の今の生活での原点になっている気がします。

普段どのようなことを心掛けているか

「自分はなにがメインなのか」は選手時代から分かっているつもりでした。なにが第一なのか、を常に頭において、それができていないのならば他のことを諦める。一番大事なことをやって余った時間をほか活動に充てる、その中で時間を作る、ということを常にやっています。何が第一かを考えて、序列をつけて、今までも頑張ってきたかな、と思っています。今でもそうです。解説のある日の前日は、誰が打ったか、調子がいいなどは必ず調べて球場に向かっていますし、講演などする前には、必ずノートに伝えたいことなどを書いて、伝えたいことがしっかり伝わるように、必ずノートを壇上に持って行って話しています。

今後の展望・目標について

野球界に恩返しがしたいです。その意味では、今は解説者として勉強していますが、もう一度ユニフォームを着て、日本一を目指したいというのが一番の目標です。引退後に学生野球資格回復研修も受けましたので、今は母校の日大藤沢高校で特別コーチに就任しています。野球教室では肩の壊れない投げ方を子どもたちに教えたりもしています。
亡くなった星野監督にも、「お前はこれから野球のことだけを考えて生きろ」ということを言われましたので、星野監督の教え子としてもそこを引き継ぎたいと思っています。星野さんは野球界のことを真剣に考えていて、野球界を取り巻く現状についても良くするために試行錯誤されていたので、そういうところを僕も見習っていきたいです。

新たなことに挑戦するために必要なことは(自身の経験を踏まえて)

一番に言えることは、「年齢は関係ない」と思います。
やりたいことにはいつでもどんどんチャレンジできるものだと思います。僕も周りから「無理だ」と言われましたが、50歳まで現役を続けることが出来ましたし、「意外とやってみると出来ますよ」というのは伝えたいですね。「無理だよ」「身体が動かないよ」「時間がないよ」ではなくて、自分のやれる範囲で挑戦していけば必ず身体は反応してくれますので、後悔しないという意味もこめて、まず挑戦をしてみればいいと思います。
無理しないでやるコツは、成果から逆算するのではなくて、続けられるかを考えて、努力の値を設定することです。成果から逆算して「これしなきゃ」と考えると、長く続かないものなんですけど、毎日「これならできるな」と思って目標に対してゆっくりやっていくと、必ず身体も反応してくれます。

「人生100歳時代」において、充実した人生を送るためのポイント・アドバイス

やはり健康第一ですね。長生きしても「苦しい」では仕方がないので、例えば生活習慣などでも改善できるちょっとした余地があるので、そこを惜しまず、努力をしながら、人生にハリと楽しみを持って生きていくことが大切なのだと思います。
僕の知っている方で、70歳を超えてもアイアンマンレースにチャレンジしている方もいます。そこまでやれとは言いませんけど、身体を動かしたり、やりたいことに対して少しずつ努力していけば、もしかしたら90歳までゴルフも楽しめるかもしれませんし、身体は何歳になっても必ず応えてくれるんですね。
なので、ぜひ、健康で長生きして、100歳まで続くよい人生を歩んでほしいと思います。

自分の好きを小さく始める

前田有紀さんの写真

前田 有紀

10年間、テレビ局でアナウンサーとして勤務した後、2013年にイギリスに留学。コッツウォルズ・グロスターシャ―州の古城で見習いガーデナーとして働いた後、都内のフラワーショップで2年半の修業を積む。その後、「人の暮らしの中で、花と緑をもっと身近にしたい」という思いから、株式会社「SUDELEY(スードリー)」を立ち上げ、イベントやウェディングの装花や作品制作など、様々な空間での花のあり方を提案する。


(株)スードリーの活動について

平成30年5月に、私が代表を務めていた「スードリー」を株式会社化して、新たに「gui(グイ)」という移動花屋を始めました。これは様々な場所に出店する花屋であり、この活動が会社のメイン事業になります。

「テレビ朝日アナウンサー」から「フラワーアーティスト」に転身したきっかけ

当時、周りを見渡すと、大学を卒業して、就職して同じ会社に勤めている人が大半で、転職する人はほとんどいませんでした。周りからは、花屋をやるのはもったいないと言われたりもしましたけど、花や緑が子どもの頃から大好きだったので、それを仕事にできたらとてもかっこいいなと思っていました。働きながら、少しずつ花に触れることで、その想いがどんどん増していき、そして、10年間勤務したテレビ局を退職し、フラワーアーティストを目指すことにしました。

前田有紀さんの活動の様子

転身する時に苦労したことは

苦労したことはたくさんあります。企業に10年間勤めて、いろんなキャリアを積んでいたので、多少の自信があったのですが、いざ花屋で働いてみると簡単な梱包一つうまくできなかったり、レジや請求書の出し方、領収書の発行の仕方など細かいところまで、知らないことで溢れていました。また、新しいスキルを身に付けるという点でも、花のノウハウや花を長く生かす技術や方法など、常に勉強が必要でしたし、先輩に怒られながら、お客様に注意されながら、日々業務をしていました。さらに、冬は手がすごく荒れます。全ての指があかぎれになるくらい荒れて、とても痛い思いもしました。人から見たら綺麗な格好をしてテレビに出ているアナウンサーの方がやりがいがあって、花屋は、雑用にまみれた下働き仕事で大変に思われそうですが、私は、それが自分らしくて楽しいと思えました。

現在の活動での「やりがい」について

自然に憧れを持ってこの世界に入ったので、花に触れている瞬間は本当に幸せです。また、今は「gui(グイ)」という移動花屋で、いろんな方々にお花を届けられるようになったので、お客様の顔を見て花を渡した時に、笑顔になってくれたり、楽しそうに花を選ばれたりする横顔をみていると、この仕事を選んでよかったなと感じます。

スードリーの活動やプライベートで心掛けていること

スードリーの活動としては、「ぬくもり」を大切にすることを心掛けています。また、花を選ぶところから「体験」してもらうということもとても大事にしています。移動花屋を始めたのも、いろんな人に選んで買ったという全てを体験してほしかったからです。あと、メールのやりとりもスタッフに厳しく指導しています。機械が送ったようなメールではなく、自分が大切に思っている人に書くようなメールを書いて欲しいと思っています。
プライベート面については、家族で鎌倉に引っ越したのですが、2歳になる子どもに、自然と文化を伝えられるような子育てをしたいなと思っています。すごく豊かな自然が鎌倉には残っていると思います。夜にふと空を見上げると流れ星がながれていたりとか、初夏にはホタルがいたりとか、自分が子どもの頃よりもたくさんの自然が身近にあります。私自身がそういった環境が恋しい子どもだったので、自分が得られなかった自然を息子に感じてほしいなと思っています。

スードリーの活動やプライベートでの夢

一番大きな夢は、私が100歳のおばあちゃんになるころに、「都会の人にとって、当たり前に花と緑が身近にある」世界をみるということです。自分がアナウンサー時代には、本当に忙しくて、自然に触れる機会はそんなに持たずに生きていました。だけど、一輪の花を玄関に飾ったところから全てが変わっていきました。今でも都会で自然を感じられないと思って、どこか息苦しさを感じている人はたくさんいると思っています。そういった方々に自分の活動を通して、たくさんの花を届けて、その人達の暮らし自体が変わるような取組みをしていきたいと思っています。
プライベートの夢はたくさんあります。もう少し息子が大きくなってきたら、地域の文化をもっと伝えていきたいなと思っています。そして、息子が大きくなって、自分の生活圏である鎌倉の外に出たときに、日本の文化を知っていて、しっかりとアイデンティティを持っていると感じてもらえるような子育てをしてきたいです。また、私も息子とともに学んで成長していきたいなと思っています。

新たな一歩を踏み出すためには

自分の好きなことを「小さく始める」ということが大事な一歩になると思います。私も、一輪の花を飾ったところから、楽しいという気持ちが増していって、二輪、三輪になり、習いに行きとステップアップしていきました。最初の一歩は小さくていいと思います。例えば、何かやりたいことがあるのであれば、週末にちょっと触れられるようなことをしてみたり、ちょっとお友達を集めて教えてみたりとか、興味があることに少しでもいいから触れ続けて、自分の好きが何かということについて向き合って考えることが大事かなと思います。その結果として、転職しなくても今の仕事をしながら好きなことをやるという生き方も素敵だと思います。その人それぞれの自分らしさというものを、好きと向き合うことで絶対に見つけられると思うので、まずは自分の好きに触れる時間を増やすことが大事だと思います。

最後にみなさんへのメッセージ

20代の頃、人生なんて、仕事なんてこんなもんだと知ったつもりになっていたところがありましたが、仕事を辞めて、やりたいことをやってみると、人生が一変しました。自分で決めつけていたものは、全然違う面を持っていて、全然違う世界が身近にあることに気づきました。世の中の考え方とか人の意見とかで決めていたものを一度取っ払って、自分はどうしたいかという自分軸で、考えたり行動したりすることで、ワクワクするものに必ず出会えると思うので、冒険する心を大切にしてください。

やりたいこと、楽しそうなことをどんどんやる

若宮正子さんの写真

若宮 正子

1935年生まれ、デジタルクリエイーター。三菱銀行(現・三菱UFJ銀行)勤務ののち、定年をきっかけにパソコンを独自に習得。1999年にシニア世代のコミュニティサイト「メロウ倶楽部」の創設に参画。現在も同倶楽部の副会長を務めているほか、NPO法人ブロードバンドスクール協会の理事としてシニア世代へのデジタル機器普及活動に尽力している。2016年秋からゲームアプリ「hinadan」の開発をはじめ、2017年2月に配信し話題となる。2017年6月に米国アップルによる世界開発者会議「WWDC
2017」に特別招待され、2017年秋には政府主宰の「人生100年時代構想会議」のメンバーにも選ばれた。


現在の活動内容について

現在、シニア世代のサイト「メロウ倶楽部」の副会長、シニア世代へのデジタル機器普及を主な活動とするNPO法人ブロードバンドスクール協会の理事を務めています。80歳を超えてからアプリを開発したことが注目され、2017年6月に米国アップルによる世界開発者会議「WWDC
2017」に特別に招待していただいたり、さらに、安倍政権の「人生100年時代構想会議」の有識者メンバーにも選んでいただきました。それまでは、どこにでもいる一人のおばあちゃんとして普通に生活していましたが、アプリ開発以降は、国内に留まらず海外にも出掛ける機会が増えて、とても目まぐるしい日々を過ごしています。私は、何もアプリ開発のプロではありません。もともと何かをつくるということが大好きで、たまたまつくったものの一つが「hinadan」というアプリだった訳です。「hinadan」は、ひな祭りのひな壇に、男雛や女雛を正しく配置するゲームです。現在、英語・日本語・中国語に対応していますが、次のひな祭りまでに、「韓国語」にも対応できるようにしたいと思っています。また、自治体や企業から講演をしてほしいといった依頼やメディアからの取材依頼もよくあります。このように、私自身とても多岐にわたった活動をしています。

アプリ開発を行うに至ったきっかけ

シニアが簡単に遊べるゲームアプリがあったらいいなと思ったのがきっかけです。初めは、さすがに自分で作ろうとは思っておらず、若い人たちに、高齢者向けのゲームアプリを作ってほしいとお願いしていたくらいです。ですが、逆にその方々から「若宮さんが作ってみたら」といった話があり、とても面白そうだったのでやってみることにしました。正直、私にできるのかなという思いもありましたが、周りの方々がサポートしてくださったので、気負うことなくできました。

アプリ「hinadan」のスクリーンショット

アプリ開発の際に苦労したこと

やはりプログラミングが大変でした。一行一行のプログラミングを作成するのはそこまで難しくはないのですが、ページが変わった時の動きなど全体構成を考えて作っていくことがとても難しかったです。私のプログラムはとても幼稚で、プロの方々からしてみれば笑ってしまうようなレベルでしたが、目的はプログラミングの勉強ではなく、「hinadan」をつくることなので、人形が動けばいいという楽観的な気持ちでつくりました。また、プログラミングは終止一貫して英語ですし、アップル社とのやりとりも英語なので、英語が苦手な私にとってはとても大変でしたが、プログラミングは周りの方に教えていただきながら、アップル社とのやりとりは翻訳ソフトを活用することでなんとか対応することができました。

現在の活動での「やりがい」

そもそも何かを作るのが大好きなので、作ること自体にやりがいを感じています。また、講演をした際に、参加者の方々に喜んでいただけたりすることもとても嬉しいですし、参加者からの質問で、思い掛けない発見もあったりするのでとても面白いです。

普段どのようなことを心掛けているか

自分のやりたいことをどんどんやることです。でも、私自身このように活動できているのは、周りにいいお友達がいてくださるからだと思います。私がやりたいと思ったことを、皆様が手伝ってくださったり、応援してくださるので、とても感謝しています。国連でスピーチをした時も、応援団としてついてきてくださったので、とても心強かったです。

今後の展望・目標

ものすごいスピードで世の中が動いているので、あまり長期目標は立てないようにしています。いい意味での風見鶏でいたいと思っています。長い目ではこのようなスタンスですが、近い話ですと、電子工作でロボットなどをつくってみたいなと思っています。

新たなことに挑戦するために必要なこと

私自身、何事においても挑戦するという考え方はしません。自分が楽しいことをやるだけ、それに尽きます。楽しんでいるうちに何かを見出せればいいかなと思っています。

「人生100歳時代」において、充実した人生を送るためのポイント

一つは、好奇心を持って生活することです。お子さんがいらっしゃる方々には、子どもの好奇心をどうか削がないように育ててほしいなと思います。これからの時代、何かのコピーを作ることで満足していてはいけません。やはりオリジナルのものを作る必要があると思います。
二つ目は、たくさんお友達をつくって、たくさんおしゃべりをすることです。
三つ目は、どんどんコンピューターを利用することです。高齢になるとどうしても記憶があいまいになってしまうことが多くなりますので、頭の外部記録媒体としてコンピューターを利用することはとてもいい方法かなと思います。むしろ、高齢者こそコンピューターを利用して、記憶という弱い部分を補助していけば、快適な生活を送れるのではないでしょうか。
以上の三つが、私が日々心掛けていることになります。みなさんもぜひ参考にしてみてください。

移住で理想の生活を実現。子育てに大切な地域コミュニティの存在

森山智美さんの写真

森山 智美

子どもが産まれたことをきっかけに東京都から神奈川県二宮町に移住。家事と育児で殺伐とした日々から、移住をきっかけにゆとりが持てる生活に。二宮町コミュニティとの交流により子どもは人見知りを克服。


二宮町に移住したきっかけを教えてください。

子どもが産まれる前は東京で暮らし、共働きでバリバリと仕事をし、お互いに人生を謳歌していたのですが、子どもが産まれたことをきっかけにその生活に違和感を感じ移住をしました。

その違和感は具体的にどのようなものだったですか?

東京で生活をしている時、夫は仕事で毎晩遅い帰宅でした。私は息子が保育園に入れなかったのでずっと二人きり。いわゆるワンオペ状態で、毎日が同じ繰り返しで忙殺され、1日があっという間に過ぎていました。
一度きりの人生、小さい子どものいる生活って一瞬なのに、このままの生活を続けると必ず後悔すると思い移住を決めました。

二宮町に移住してみていかがですか?

今までは生活することだけで精一杯だったのですが、気持ちにゆとりができました。二宮町には温かい人柄の方が多くて、そのコミュニティの中にいるとほんわかした生活がおくれるということも大きいのだと思います。東京に住んでいた時の生活よりも丁寧に、身の丈にあった暮らしができていると感じていますし、子どもにも変化がありました。

二宮町での暮らしの様子

お子さんにはどのような変化はあったのですか?

元々は人見知りだったのですが、移住してからは気さくに近所の方とも会話ができるようになりました。実は子どもの人見知りには私にも原因がありまして、東京に住んでいるときは「知らない人と話してはダメ」とよく注意をしていました。
しかし、二宮町は町全体がコミュニティになっていて、みんなで支え合おう、子どもを地域で育ていこうという雰囲気があり安心できる人間関係があります。例えば東京に住んでいた時は、「ガチャ」と玄関を出るタイミングが一緒だと気まずかったのですが、ここでは「うちでとれた野菜をあげるよ」といった会話が日常的にされていて、このような人と人との温かい距離感が子どもにもとてもよい影響を与えています。

地域での交流の様子

二宮町のおすすめコミュニティはありますか?

最近、「二宮農園」という自然農法の畑に参加しています。そこではさまざまな年代の方が野菜づくりのために集まっています。自分たちで安心安全な野菜をゼロから育てて食べるという体験も面白いのですが、そこで出会う地域の方々から貴重な地元の情報が聞けるのも楽しいです。

二宮農園の様子

海・音楽・笑顔、人生を決めたあの感動。次は誰かのきっかけをつくるために

杉下正樹さんの写真

杉下正樹

PACIFIC BEACH FESTIVAL 主催者
株式会社フェスティバル code

神奈川県茅ヶ崎市出身。バンド活動に挫折、自分が何に向いているのか分からなくなっていた時期に参加した音楽フェス「Fly High Beach」の体験に感動してフェスの主催者を志す。


自己紹介をお願いします

株式会社フェスティバル代表の杉下正樹です。PACIFIC BEACH FESTIVALなどのエンターテイメントのフェスをつくっています。

PACIFIC BEACH FESTIVALはどのようなフェスなのですか?

茅ヶ崎サザンビーチで開催される「音楽・スポーツ・環境」にフォーカスを当てたフェスです。2018年に1回目を開催したのですが、無料エリアを含めると1万人以上が来場しました。

PACIFIC BEACH FESTIVALの様子

フェスづくりを仕事にしようと思ったきっかけを教えてください

いくつかきっかけはあるのですが、一番大きいのは茅ヶ崎で開催されたフェス「Fly High Beach」に参加したことです。当時、私はバンド活動をしていたのですが、音感はないし、楽器は下手だし、バンドではプロにはなれないなと気づき始め、何が自分に向いているのかわからなくなっていた時期でした。そんな時に参加したのが「Fly High Beach」というフェスで、海と音楽と参加者の笑顔が溢れるその空間に感動し「これだ!」と思いました。

「これだ!」というのは具体的にはどのように思ったのですか?

僕はアーティストにはなれないから人を感動させられる曲は歌えません。ですが、人を感動させられる空間ならつくれると思いました。アーティストが曲をつくり、僕はそれを聞ける場所をつくりたい。そしてフェスをつくる職業に就こうと思い、今に至ります。

PACIFIC BEACH FESTIVALはどのようなフェスにしたいと思っていますか?

誰かの貴重なきっかけがつくれるフェスにしたいと思っています。ただ遊ぶだけではなくて、遊びを通して海の環境問題を考える機会になったり、フェスで新しい友だちや恋人ができたりして、何年後かに結婚して子供を連れてきてくれたら最高ですよね。
かつて僕が大切なきっかけをもらったように、次は誰かのきっかけをつくれたらと思っています。

最後にイベントやコミュニティに参加しようと思っている方に何かアドバイスはありますか?

よくいわれることですが実際にその場に行かないと感じられないことがたくさんあります。いろいろなところに足を運ぶことで新しい感覚に出会えると思うので積極的に参加してみてください。

生徒たちが教えてくれた大事な考え方。そして今、ソーシャルフェス®︎という実験へ

雨宮優さんの写真

雨宮 優

ソーシャルフェス®主催者。Ozone合同会社 代表。神奈川県横浜市出身。SDGsそれぞれのゴールが達成された後の世界を想像し、仮想体験できるソーシャルフェス®︎。ユニークな挑戦の原体験は子どもたちにテニスを教えるコミュニティでの活動だった。

※SDGsとは
2015年9月の国連サミットで採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」にて記載された2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標


ソーシャルフェス®はどのようなコンセプトなのですか?

フェスティバルを一番小さな社会のモデルと考えて、SDGsそれぞれのゴールが達成された後の世界を想像し、仮想的に共同体験するフェスプロジェクトです。

具体的にはどのようなイベントなのですか?

それぞれのゴールごとに企画制作しているのですが、例えばSDGs12「つくる責任、つかう責任」が達成された後の世界の表現として「Mud Land Fest」というものがあります。これは千葉の有機野菜畑を会場に農家さんと共に泥まみれになって踊り、土に埋められた野菜をその場で収穫してその場で食べ、究極の地産地消、顔の見える消費を実現しているイベントです。

なぜそのような活動を始めようと思ったのですか?

学生時代に先輩に誘われて、テニススクールでテニスを教えていたことがあります。人に何かを教えるということは、何を伝えるのかも大事だけれど、それと同じぐらいどう伝えるのかということが大事だということに気づきました。そこで出会ったのが教育(エデュケーション)とエンターテインメントを融合した「エデュテインメント」という言葉でした。この言葉を知り、試行錯誤した結果、子どもたちの成長の速度も格段に上がりました。その経験を1つのきっかけに課題解決とエンターテインメントはもっと密接な関係にあって、自分なりにメソッドを体系化していけるのではと思うようになり、今に至ります。

インタビューに答える雨宮優さん

ソーシャルフェス®というのは雨宮さんにとって「エデュテインメント」を実現する場ということですか?

エデュテイメントはまず”楽しい”が先にあって、それをより楽しくするためにどうしたらいいかという思考です。SDGsのことを考えると時も同じように課題の先にある希望の体験をまずしてみて、そこから課題を知っていくほうが内的動機づけができるのではと思いました。
フェスティバルとはそもそも理想の未来の仮説検証だと思っていて、小さな社会で身体感覚を持ってして1つの未来の選択肢を仮装し、感じてみること、表現してみることで、僕らは納得度の高い未来を選んでいくことができるのではないかと思っています。それがソーシャルフェス®︎という実験です。

最後にイベントやコミュニティに参加しようと思っている方に何かアドバイスはありますか?

他人との違いから自分らしさを発見することができるように、様々な”異なり”に挑むほど自分というものが見えてきます。体験したことのないことに挑むのは勇気がいるけれど、新たな体験は新しい世界、新しい自分の観点を授けてくれます。それが多ければ多いほど、人に優しくなれるし、世界を鮮やかに感じていけるのだと思います。

表現する立場から支える側に。アーティストコミュニティがくれた再始動のきっかけ

内田洋茂さんの写真

内田 洋茂

NPO法人3FCommunity Service 代表理事。digress lab
CEO。神奈川県茅ヶ崎市出身。日本とニューヨークでダンサーとして活動をしていたが、壁にぶつかり引退。茅ヶ崎のアーティストコミュニティとの出会いをきっかけに、表現に関わる活動を今度はサポートする側として始める。


3F Community Service の活動内容を教えてください。

アートの力で茅ヶ崎市を更によくすることを目的に活動しているNPO法人です。過去には茅ヶ崎市と協働事業で、改修工事前の文化会館でアーティストの作品を展示したり、壁に絵を描いてもらい展示会をやりました。

https://www.youtube.com/watch?v=f1Gq8kVXL9Y

他には湘南のアーティストを70人近く集め、ZINEをつくってもらい、湘南T-SITEで展示会を開催したりしています。
※ZINE 個人で制作した冊子のこと

活動のきっかけを教えてください。

活動を始めたきっかけは茅ヶ崎のアーティストコミュニティとの出会いですね。茅ヶ崎周辺のアーティストが集まり、アートの力で茅ヶ崎により楽しいことを増やしていこうと一致団結し活動を開始しました。

それまではどのような活動をしていたのですか?

もともとは日本とニューヨークでダンサーとして活動をしていました。自分で言うのもおかしいのですが、結構本格的に活動をしていて、「来年からマイケルジャクソンのツアーが始まるんだけど、そのバックダンサーを探している。君のダンスは面白いからLAまでオーディションを受けに来てくれ」と連絡が来たりしたこともありました。しかし、ダンス自体は評価をしてもらえるのですが、僕は166cmしかなく、その身長だと海外の方と並んだ時に体格で落とされてしまうという経験を何回もしたりして、壁にぶつかりダンサーをやめました。

インタビューに答える内田洋茂さん

表現に関わる活動を再始動するきっかけになったのが茅ヶ崎のアーティストコミュニティとの出会いということですか?

ダンサーのときの経験から1人だとできることは限られているなと痛感していたのですが、同じ課題を感じ、アクションを起こしたいと考えている仲間たちと力を合わせて、活動を開始することができました。
そして、今回は自分が前に出るのではなくて、自分がサポートする側にまわり、アーティストを支援していく活動をしています。

最後にイベントやコミュニティに参加しようと思っている方に何かアドバイスはありますか?

何も知らないイベントやコミュニティに参加するのが僕も苦手で、どんな人がいるかも分からない場所に飛び込むのって結構勇気がいると思うんですよ。ただし、そこで知り合った人をきっかけに新しいことが始まったりすることがよくあるので、ぜひ勇気をもって飛び込んでみてください。

CIVIC TECH コミュニティがくれた価値観の合う仲間たちとの出会い

山田洋志さんの写真

山田 洋志

株式会社ガッコム代表取締役。オープン川崎/Code for Kawasaki
副代表。神奈川県川崎市在住。なかなか分かり合える人がいなかった「テクノロジーやデータの力で社会の課題を解決していきたい」という想い。CIVIC
TECH
FORUMをきっかけに価値観が合う仲間たちと出会い新しい活動を始める。
※CIVIC TECH(シビックテック)
市民自らが、テクノロジーを活用して、行政サービスの問題や社会の課題解決をする取り組み


オープン川崎/Code for Kawasakiはどのような活動をしているのですか?

主にテクノロジーやデータの力で川崎市を活性化することを目的とした市民参加型のコミュニティです。活動内容は、オープンデータを活用し地域の魅力を発信するためのプレゼン対決や最近ではコロナウィルス対策のサイトを作る活動をしました。
※オープンデータ 誰でも利用・再配布ができるデータのこと

それ以前にも同じような活動をされていたのですか?

本業のガッコムはまさに同じミッションを掲げたベンチャーですが、それまでは自分で発信したり外に出ていくということは積極的にやっておらず、どちらかというと会社に閉じこもり、サイトやアプリの制作に邁進していました。

インタビューに答える山田洋志さん

なぜオープン川崎/Code for Kawasakiの活動に参加したのですか?

「CIVIC TECH
FORUM」という、テクノロジーを活用して社会課題の解決を目指す取り組みをしている人が集まるフォーラムで登壇の機会をいただきまして、そこで出会った方々と深く共感し、一緒に活動をしたいと思い参加しました。

そのフォーラムではどのような方々と出会ったのですか?

価値観や考えていることが似ている方々とたくさん出会いました。今までは異業種交流会で「情報をオープンにして、皆がアクセスしやすくすることで社会をよりよくしていきたい」と話しても「へーすごいですね」で終わってしまい、同じ目線で話ができないことによく寂しい思いをしていました。ところがこのフォーラムに来ている方々は、みんな同じようなことを考えていて、話す人たちすべての方と話が合いました。こんなにも同じことを考えている人が集まるコミュニティがあるのか!と衝撃を受けましたね。

活動を始めてからどのような変化がありましたか?

今までよりもはるかに行動がしやすくなりました。それは一緒に同じ課題に取り組む仲間がいるという気持ちの面もあるのですが、実務的な面でも情報の入り方が大きく変わりました。1人ではできなかったことがコミュニティのおかげでより簡単に、より早くできるようになりました。

オープン川崎/Code for Kawasakiの活動の様子
オープン川崎/Code for Kawasakiの活動の様子

最後にイベントやコミュニティに参加しようと思っている方に何かアドバイスはありますか?

新しいコミュニティに参加することは、自分の領域を広げてくれます。私もその恩恵を受けた1人です。ただし闇雲に参加するのではなく、ぜひ自分の属性に合うコミュニティを見つけて参加してみてください。きっと素敵な出会いがあると思います。

会社を辞めて世界一周に。きっかけは断り続けていたイベントへの参加

中込孝規さんの写真

中込 孝規

「世界とつながるダンス教室」代表。神奈川県平塚市在住。もともとは内向的な性格だったが、イベント参加をきっかけに勤めていた教育関係の会社を辞め、世界一周をしながらダンスを教える旅に出る。日本に帰国後平塚市にダンス教室を開く。


世界一周をしながらダンスを教える旅に出たきっかけを教えてください。

もともとのきっかけとなったのは「homeroom」というイベントで出会った人たちに背中を押されたことです。昔から世界一周とダンスを教えることは夢だったのですが、「いつかできたら」と先延ばしにしていました。

インタビューに答える中込孝規さん

「homeroom」というのはどのようなイベントだったのですか?

教育に関心のある人が集まり教育について語り合うイベントでした。初めて行く時は抵抗がありました。もともと人と話すのが得意ではなくて、自分に対してのコンプレックスも強かったので何度も友人に誘われていたのですが、何かと理由をつけて3年間断り続けていました。

そのイベントでどのように背中を押されたのですか?

イベント後の飲み会でみんなが自分のやりたいことを話していたので、僕もつい「子どもたちにダンスを教えたい」ってぽろっと言っちゃったんですね。そしたら「え、なんでやらないの?」「一回やってみたらいいじゃん」「やらない理由ないじゃん!」ってぐいぐい背中を押されて。その勢いで初めて自分でイベントを主催したのですが、これがゾクゾクするぐらいに楽しくて。
その時にやりたいことってできるんだなっと実感し、やりたいことを先延ばしにするのはもうやめようと思いました。それで会社を辞め夢だった世界一周の旅に出ました。

世界でのダンスの様子
世界でのダンスの様子

「homeroom」は中込さんにとってどういう存在ですか?

一歩踏み出すキッカケをくれたイベントですね。このイベントに参加していなかったら人生がまったく違うものになっていたと思います。誘ってくれた友人にはとても感謝しています。

最後にイベントやコミュニティに参加しようと思っている方に何かアドバイスはありますか?

イベントに参加したことがきっかけで、私は人生が大きく変わりました。興味があるものには、ぜひ参加してみてください。

本当は嫌だった自治会参加が人生転機のきっかけに

くまがいゆかさんの写真

くまがいゆか

子どものための絵画工作教室主宰。神奈川県相模原市在住。子ども向けにアート教室を開くなど、地域の中で活動したいと考える中で、地域を知るために自治会に参加。自治会で今までにない体験をし生活が大きく変わった。


自己紹介をお願いします

私は美術大学の油絵科を出て、絵画教室の先生になりまして、30年経ちます。10年前に相模原市に引っ越してきて、それをきっかけに自治会に入り、今までにない体験をして生活が変わりました。

光が丘地区の自治会に入る前も他のコミュニティで活発的に行動をされていたのですか?

全然活動していないですね。なぜか自治会だけ相性が合って。それまでは、大学のサークルなども全然相性が合いませんでした。私は集団行動がすごく苦手で、良い思いをした事がありませんでした。

参加したきっかけを教えてください

私がこの町に引っ越してきた目的が子供の絵画教室を自宅で開くことだったのですが、教室を開くにあたり、近所に馴染まなければと思いました。

自治会での活動はどのようなことをしているのですか?

最初の1年は、班長として、自分のところの自治会の仕事をしました。私は美術系なので、その後次第にイベントチラシなどのデザインもするようになりました。現在は、地域の自治会連合会の役員もやっています。

自治会での活動の様子

自治会に実際に入ってみてどうでしたか?

最初は、怖くてプレッシャーで熱を出しました。しかし2、3か月くらいで気持ちが真逆に変わりました。

真逆に変わったのはどのようなタイミングで変わったのですか?

自治会の仕事で配りものをしたことがきっかけになりました。行く先々で「ありがとうね」と感謝されて「あんたはよくやってるね」と知らないおじいちゃん、おばあちゃんに褒められ、こんな些細なことで褒めてもらえるんだ、と思いました。それからいつのまにか全員知り合いというようになりそれが居心地がよくて。私は、一人暮らしで一人で仕事を経営しているので、同僚も部下も上司も今まで1人ももったことがないんです。常に1人だったので、それが急に大勢の人と知り合いになって、今までに感じたことがない喜びを感じました。

インタビューに答えるくまがいゆかさん

自治会はくまがいさんにとってどのような存在ですか?

いろんな言い方が出来ると思いますが、人類は皆兄弟とよく言いますが、それを感じさせてくれる存在です。親には代えられないけれどでも近所に私を可愛がってくれるおじいちゃんおばあちゃんがいっぱいいれば、悲しい時に泣きに行くことが出来ます。広い意味で親戚や家族のようなものだなと思います。